今日も一日が終わった。時計の針はもうすぐ22時。子供たちを寝かしつけ、山積みの洗濯物を畳み終えた瞬間、どっと疲れが押し寄せる。リビングの電気を消し、ようやく一息…つく間もなく、ふと視界に入ったトイレのドア。開けるのが怖い。なぜなら、そこには目を背けたくなる現実が広がっているからだ。
夫も私もフルタイム。朝から晩まで走り回り、平日は戦場だ。保育園のお迎え、夕食の準備、お風呂、寝かしつけ。時計の針は容赦なく進み、自分の時間なんてどこにもない。週末は子供との時間、溜まった買い物、そしてまた一週間分の家事に追われる。一体いつ、あの手強いトイレと向き合えばいいのだろう?
「来週こそは…いや、もう無理だ」「なぜ私だけがこんなに疲れているのに、こんなことまで気にしなきゃいけないんだ?」心の中で叫びたくなる。気づけば便器のフチにはうっすらと黒ずみが…いや、うっすらどころじゃない。水のたまる場所にはピンク色の汚れが居座り、タイルの目地には小さなカビが点々と。来客があった時なんて、もうパニックだ。「ごめんね、今ちょっと忙しくて…」と心の中で言い訳しながら、慌ててシートで拭き取る。でも、根本的な解決にはならない。拭けば拭くほど、自分の無力さを突きつけられるようで、「もうダメかもしれない…このままでは、家が汚れていく一方だ。子供たちに清潔な環境を与えられないなんて、母親失格なんじゃないか?」自己嫌悪の波が押し寄せる。
夫も疲れているのは分かっている。でも、この重い空気は、一体誰がどう変えればいいのだろう。この黒ずみは、単なる汚れじゃない。私たちの心の疲弊そのものだ。完璧な母親、完璧な妻でいなければというプレッシャーが、さらに私たちを追い詰めていた。
そんなある日、友人のSNSで見かけた「家事代行」の文字。最初は「贅沢だ」「自分たちでやるべきだ」という思いが頭をよぎった。でも、本当にそうだろうか?このままストレスを抱え続けることの方が、よほど大きな損失なのではないか?私たちはついに重い腰を上げ、なぜトイレ掃除がこれほど負担になるのか、その根本原因と向き合うことから始めた。
共働き家庭にとって、理想のトイレ掃除頻度は現実的ではない。毎日サッと拭く、なんて夢のまた夢。週に一度、徹底的に、が理想だが、それすら難しい。だからこそ、「誰が」「いつ」「どのように」を再定義する必要があるのだ。家事代行サービスは、単なる「掃除の代行」ではない。それは、時間と心のゆとりを買い、夫婦関係を円満にし、何よりも家族の健康を守るための「投資」だ。週にたった数時間、プロの手に委ねることで、私たちは本来向き合うべき子供たちとの時間や、夫婦で過ごす貴重な時間を手に入れることができる。
もちろん、家事代行に頼むだけでなく、日々のちょっとした工夫も大切だ。使い捨てブラシの活用、トイレ用ウェットシートの常備、汚れがつきにくいコーティング剤の導入など、小さな積み重ねが大きな差を生む。最も重要なのは、完璧主義を手放すことかもしれない。「誰かがやるべき」という固定観念を捨て、「どうすれば最も効率的で、心穏やかに過ごせるか」という視点を持つこと。トイレの黒ずみが消えるだけでなく、私たちの心に積もった「家事のモヤモヤ」も晴れていく感覚。それは、想像以上に清々しいものだった。共働き家庭のトイレ掃除は、単なる家事ではない。それは、家族の健康、心のゆとり、そして夫婦のパートナーシップを映し出す鏡だ。もう自己嫌悪に陥る必要はない。私たちには、もっと賢く、もっと心豊かに生きる選択肢があるのだから。
